先日宿泊してきました下諏訪温泉 みなとや旅館のことを動画で宿泊レポします。
こんにちは。タビエルです。本日はみなとや旅館、に泊まってきたときのお話をします。
場所は長野県の下諏訪温泉。
みなとや旅館を味わうためには、この宿がどんな場所にあるのか、どんな時代を潜ってきたかというのを知っておきたいとこなんですよ。
下諏訪宿とよばれた宿場町の面影をほんのり残す下諏訪は、諏訪湖の近くにありまして、諏訪大社の下社秋宮の門前町として栄えた町です。ここで諏訪大社はいいけどその後の下社秋宮ってなんなのさってことですが、これは後で話します。
諏訪湖 立石公園
まずは、諏訪湖を見渡すならここがいいよと、教えてもらった立石公園へ行ってみることにしました。
大ヒットアニメ映画「君の名は」の聖地らしく、名シーンのひとつが、ここがモデルじゃないかといわれてるわけですが、監督の新海誠さんは長野県小海町出身だそうなので、十分に考えられる話です。
御柱祭山出し最大の難所「木落し坂」
今日泊まる宿は岡本太郎氏が大好きだったお宿なんですが、同じく太郎氏が大好きだった御柱祭りの「木落し」が行われる場所に来ました。
日本三大奇祭のひとつとされる御柱祭りですが、ぼくも御柱祭りのことを知ってるわけではないので御柱祭りのサイトから引用しましょう
「御柱祭とは宝殿の造り替え、そして御柱を選び、山から曳き、境内に建てる一連の神事を指します。“御柱”となるのは樹齢150年、17メートルを優に超える選ばれた16本のモミの大木だけ。それを人の手で里に曳き出し、7年毎の寅と申の年に諏訪大社の社殿の四隅に建てます。」
なるほど、ということは柱を坂の上から引き落とすのが目的ではなくて、切り落とした大木を諏訪大社の4宮に運ぶ途中に坂があったので引き落としたというわけなんですね。驚きなのが、これを平安初期からやっていたそうで、そういう記録が残っているそうです。大木を引き落とすときに氏子の若者達が群がって乗っかるっていうんですよ。で、落下の反動で放り出され、毎回負傷者続出っていうんですから、さすが日本3大奇祭です。
中山道
それでその奥を見ますと、「中山道」という看板があったんです。実際は道としては機能してないので、中山道跡といったところです。昔の人はこういう道を歩いていたんですね。
険しい峠を越えて、やっと宿場町が見えてきたときの「おぉ着いたよ。やっと下諏訪だよ。温泉で休もう〜」っていう気持ちがちょっと感じられました。
万治の石仏
万治の石仏を見に参りましょう
この万治の石仏を見た太郎さんは
「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と言ったそうです。
こんな言い伝えがあるそうです。諏訪のお殿様が、諏訪大社に大鳥居を奉納しようとした時のこと。まぁつまりそういう命令を出したんでしょうね。それを受けて石工がこの地にあった大きな石を使おうとノミを打ち入れたところ、血が流れ出たんだそうです。で、驚いだ石工はこの不思議な石に阿弥陀様を刻み、この石仏ができあがったと伝えられています。建立が万治3年なので「万治の石仏」と呼ばれるようになったそうです。
あぁ、万治は年号なんですね。四万温泉は4万の病を治してくれるっていうから、こちらも万単位で治してくれるのかと思ったけどそうではないようです。
諏訪大社 下社秋宮
もしいまグーグルマップがありましたら「諏訪神社」って入れてみて下さい。お近くの諏訪神社が地図上にドワーっと出てくると思いますが、ざっくりいいますとその神社の源流というのがこの諏訪大社です。このトップオブ諏訪神社である諏訪大社っていうのは、諏訪湖の周辺に4箇所のお宮をもつ神社です。
ですから「諏訪大社で待ち合わせしよう」なんて約束しても出会える確率は1/4なのでお気を付けくださいね。もちろんそれぞれのお宮さんには名前がついています。そしてそのうちの下社秋宮の近くにみなとや旅館があるというわけです。
諏訪大社は信濃國一之宮。この、時々耳にする一宮なんですけど、これは神社の序列を意味してるようですね。国司といって中央政府から派遣された役人はまず、その土地の神社に挨拶に行くんですって。その順番から一宮、二宮とついたそうなんです。ですから諏訪大社は、信濃の国に派遣された国司が井の一番に挨拶に行く神社ということなのでしょう。
さらにここは国内の最も古い神社の一つだそうです。
ではこの大社にどのような神様が祀られているかというと、それが建御名方神(タケミナカタ)。五穀豊穣を祈る神、そして武勇の神。わかりやすいように俗物的な言い方をお許しください。お父さんは大国主神(オオクニヌシ)。神話の世界で出雲の国を拠点に日本という国をつくったとされる神です。のちにアマテラスノオオミカミが、「地上の国の統治権を譲りなさい」という要求をしてきたんです。いわゆる「国譲り」ですね。これにたいし、血気盛んな息子の建御名方神(タケミナカタ)は力づくで抵抗しようとしたが力及ばずで諏訪の地方まで追われて、ここに拠点をかまえたというストーリーのようです。
僕自身、神話ってなんなんだろう。もしこれがただの架空の話だったらそこになんの価値も感じないなと思ってた時に小名木善行さんが武田邦彦さんのチャンネルで話している動画に出会ったのです。
この話を聞くと神話がいかに奥が深いかわかりますよ。
宿場街道資料館
宿場街道資料館というところに立ち寄ってみました。
江戸時代の商家の造りだそうです。
「綿の湯復元模型」というのがありました。
これは興味深いです。こういうのがあったなんて、
この模型は古い文献をもとに造られたそうですが、おそらくこれが1800年ころの様子だろうということです。
身分の高い人は内湯を、町人たちや普通の旅人もそうだと思いますが野外の風呂に屋根だけがある、今でいう半露天風呂に入る決まりだったと説明がありました。この模型の今見えてる個所のようです。露天風呂は庶民の特権だったんですね!
この綿の湯は1987年に老朽化のため閉鎖、と聞きました。ということは姿かたちは変わっていったとしても、それまでは残ってたんですね。これ絶体なくしてはいけないものだったと思いますよ。あの永六輔さんは地元の人と一緒に復活運動をなさってたそうです。
到着
まもなくみなとや旅館です。
この地は凄いとこなんですよ。ちょっと頭の中に地図を描いてほしいのですが、江戸を出発してた旅人が高崎や軽井沢、下諏訪を通り京都まで行ける中山道、これが北ルート。同じく江戸を出発した旅人が八王子や甲府を通って下諏訪まで歩く甲州街道、これが南ルート。それらがみなとや旅館の目の前で出会ってしまうんです。両方から来た旅人が流れ込むこの下諏訪の地は、やっぱり相当にぎわったんだろうなって気がします。
「右甲州街道」そして
「左中山道」とあります。
つまりいま背中が甲州街道。そして今背中側が中山道。さっき御柱の木落とし坂でちょっとある板とこですね。
温泉が流れています。
下諏訪は温泉のイメージはそれほど強くはなかったが訪れてみると、地元の人で賑わう小さな共同浴場をあちこちに見かける。
ここが宿場町だったころ、長い旅路を歩いてきた旅人にとって、この温泉がどれだけありがたかったことでしょう。
ではお宿に入りましょう。
読めますかね。ぼくはこういう字まったく読めない人間で、まったく自信はありませんが「美那登屋」でしょうかね。
あぁここは岡本太郎さんが御柱のときにノリノリで写真に写っていたとこですね。
こんにちは~
この建物はなんと古民家再生の第一人者、降幡 廣信(ふりはた ひろのぶ)さんが手がけているそうです。多分若いころに手がけたものなんでしょう。
松本民芸家具の椅子がいいかんじです。奥にはいきなり岡本太郎さんの作品。
鈍い光を反射させている縦横の木と、漆喰の壁の民芸調の宿。
お部屋は2階です。
左側に3室、右側に2室あると思われますが実質左側の3室のみが稼働しているんじゃないかなと思います。なにしろ平日は1組貸し切り、休前日も3室までの受け入れですから。
みなとやさんには過去5回くらいお世話になっているんですが、最近清潔感が増した気がします。そして以前はこの戸に鍵がなかったんだと思うんです。はい。部屋に鍵を〆られなかったんです。まさに昔の旅籠状態ですが、さすがに今は鍵がついていました。
とくに何かがあるわけではない素朴な8畳の和室です。
庭側のお部屋で、中庭を見下ろせるようになっています。
たぶんこの方角が諏訪大社下社秋宮なんじゃないでしょうか。
若女将さんが抹茶を点ててもってきてくれました。
ここでしばしおしゃべり
浴衣は2枚用意されていて
なにしろ旅籠の時代から建物の造りはほとんど変わってないのでトイレは部屋にはありません。ただ戸を開ければすぐそこだし、いずれにしても平日は貸切で他にお客さんもいないからトイレまで含めて自分の部屋みたいな感覚です。
なつかしいタイルの風情。
古い建物ではありますが水回りはちゃんと手が入っていて清潔感は保たれています。
貸切り露天風呂 庭湯
ではお風呂へまいりましょう。
この暖簾からお風呂がちらっと見えると、いつもワクワクします。
まだ露天風呂が珍しい頃に、庭の片隅に作ったのがこの庭風呂だそうです。そして注がれるお湯は「1000年の歴史を持つという「綿の湯」の源泉です。ちなみにこの源泉の命名は小林秀雄氏。
ハッとする美しいお湯。そこには白い玉砂利が印象的。
お湯はお肌に優しそうななめらかな肌触り。お湯につかりながらぼんやり日本庭園を眺める、にやけてしまうほどいい気分です。
このお風呂すができた当初はこの玉砂利はなかったけど、ある事件がきっかけで玉砂利が入れられたそうです。HPから引用します
「初入りの岡本太郎さんが入浴中に底のスノコが浮き上がり、太郎さんは溺れたような姿で大声をあげました。この欠陥を指摘して
「縄文時代の温泉なら底は石だ」と・・・
そのひと言によって、この風呂は石を敷き詰めることにしました。大郎さんはその後・欠かさず、この風呂を楽しみに来られました。」
夕餉
さて、夕食の時間になりました。
ひとことで言っていまやみなとや旅館でしか食べられないといってもいいような貴重な食べ物が並びます。
岡本太郎さんたちが来ていたころとほぼ変わらない料理だそうです。
ちなみに山野菜は保存食が中心で、春夏秋冬いつきてもあまり変わらないと思われます。採れたての山野菜が食べれる訳ではありませんんが、代わりに信州に根付いた食文化や、化学調味料に頼らない日本伝統の発酵食品を知れる料理であります。
食前酒は
食前酒は黄色がまたたび、赤が「こんまらはじき」という木の実からつくられるそうです。甘酸っぱくてフルーティー
もちろん自家製。
下戸には食前酒が美味しいていうのがありがたいです。
こごみ
こごみですね。去年の春に採れたものだそうです。塩漬けして一年中たべられるようにしている保存食ですね。なぜかいいぐあいにシャキシャキしていている。
ワカサギの南蛮漬け
揚げてあるのでサクサクとした歯触りです。噛んでいると酸味が和らいできてほろ苦い香ばしさが広がりました。諏訪湖のワカサギは味が濃いので本当はそれで料理したいけど、希少品でなかなか手に入らないと嘆いていました。
きのこおろし
なめこと大根おろしを合えたもの。信州の特に坂城町というところが有名なねずみ大根というものだそうで、この大根は辛みのつよいですがただ辛いだけじゃなくて旨みある辛さがいいですね。
諏訪湖の鮒 佐久の田鮒
田鮒の甘露煮。これは佐久で獲れた鮒らしいですが本当は諏訪湖の鮒を出したいんですって。
イナゴ ざざむし 蜂の子の佃煮
蜂の子とざざむしはどちらもナッツみたいな味合いです。
ざざむしは水が綺麗な清流じゃないと育たないらしくて、いま採れる数が激減しちゃってるそうです。
イナゴはサクッとした食感が軽やかで、味はほぼ佃煮の味。僕ですね、うん十年生き恥をさらしてきてはじめて知ったのですが、イナゴは稲しか食べないそうなんです。あぁそれでイナゴなのかっ!と、このとき衝撃が走ったのでした。
川エビ
甘みがあって
あざみ(茎の部分) 塩漬け
ごま油 シャキシャキの食感で味もアクセントのある味。生姜にみたいの
馬刺し
馬刺しは赤み中心で臭みをほとんど感じない上質なもの。にんにくで臭みを消す必要がないということか、ここはおろし生姜一本勝負。口に入れた瞬間は、おやっ?て思うほど淡白に感じますが、ゆっくり噛んでいるとだんだん旨みが出てきます。
桜鍋
桜鍋とは馬肉のすき焼きです。
下仁田ねぎ敷いてあって、馬肉、そして味噌ベースのタレ。
お肉は先ほどの馬刺しと同じ肉というから、生で食べられるくらい新鮮なものです。
ながねぎがねっとり甘く、味噌だれもわりと甘めだ。たぶんりんごとか使ってるだろう味。
そしてご飯がめちゃめちゃ旨く感じるのでした。
馬肉を食べる風習はもともとあった。働いた馬だったので硬い肉ですき焼きのような食べ方だった。女将が家を建て替えてそれまでの宿とは違う何かを。海外を生き倒している人が、馬肉のさくら鍋が一番うまいんっだ!それで女将が名物料理にした。さくら鍋はみなとやだけだろう。
世の中懐石を模したもの、バイキングへと分化しているが何年も変わらないものがみなとやの料理。
信州の人々の食生活の源流を知る思いです。
夜の露天風呂
寝る前にまた一っぷろ
貸切なのでいつでも入れちゃいます。
周囲はだいぶ静かだ。
朝風呂
おはようございます。目覚めの一っぷろ。平日は貸切なので気が向いたときにいつでも入れます。贅沢。
朝餉
朝食は昨晩と一緒の場所ですが、庭が見える側にしてくださっていました。
凍り柿
まず最初に手をつけるのが凍り柿。
なにも手を加えてない 渋みを抜いてから凍らせるだけのものだそうですが、ぼくらの口に入るころには程よく溶けていて、ひと噛みするといい具合にとろけます。そしてこれが本当に砂糖加えてないの?と疑いたくなるくらい甘い。
風呂上りだったり、夏の朝、目覚めの一口をいただくとこれがたまらん旨さなんです。
馬肉のしぐれ煮
野沢菜
ワカサギ
ワカサギですが、昨晩と違って酢は使わない甘露煮です。じんわり心にしみる味。素晴らしかったです。
山うど
ごま油で味付け
キャラブキ味が凝縮
冷蔵庫ない、流通も発達してなかった時代に信州の人々がどうやって野菜や山菜を保存して一年中食べれるようにしてきたかが分かる料理です。
雉出汁の蕎麦雑炊
そして締めくくりは蕎麦雑炊。キジで出汁をとった汁がが絶品です。三つ葉の風味をアクセントに蕎麦の実がさらさらと起き抜けの胃袋に流し込まれる快楽
粋人たちの余韻
江戸の中頃、ここは宿場町。このみなとやは木賃宿だったそうです。
旅籠と木賃宿はどう違うんだろうと思いちょっと検索たところ、旅籠は夕食と朝食を出す宿で、木賃宿は旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊く宿屋を指すようです。木賃というのは薪代だというのは知りませんでした。いまではほとんど見かけなくなりましたが湯治場の自炊所へ行くとコイン式のガスコンロがあって、10円玉を入れると何分かガスコンロが使えるというあのお金の元祖ではないですか。
ちなみに岩手の鉛温泉にある藤三旅館の湯治部にはまだ「10円ガス」があるらしいですよ。
時代が下がって、今は引退された、ご主人さんと大女将さんの時代にかなり思い切った改装を行ったそうなんです。目玉は庭の露天風呂。
そもそも昔はほとんどの温泉場では宿まで温泉が引かれてなくて、温泉と言えば町の真ん中にある共同浴場。お客のほうがそこに出かけていく。いや温泉が町の真ん中というのは話が逆でして、共同湯を取り囲むように宿屋が出来ていったから、その結果共同湯が町の中心になったということらしいです。
話を戻しますと、そんな時代に宿に温泉が引いてあって、しかも露天風呂だっていうからかなり斬新な宿だったのでしょう。
そもそも露天風呂っていう言葉がなかった時代、いわゆるお役所仕事と言うんでしょうか、保健所が「風呂場に窓が無いのはよろしくない。窓をつけなさい」と指導にくるという、すったもんだもあったそうです。
おおがかりな改装にはとうぜんそれなりの費用がかかったのでしょう、ご主人さん、大女将さんはがむしゃらに働いたそうです。そしていつしか大大人気のお宿に。どれくらいかというと数年先まで満室で予約がとれない状態の時もあったそうです。想像ですが当時の日本では一番予約がとれない宿だったんじゃじゃないでしょうかね。さらに、この宿を愛した人たちがまぁ凄い。
「岡本太郎・白洲次郎・小林秀雄・新田次郎・小沢昭一・永六輔」と揚げてみるも、言葉通り、キリがない。
そしていま、みなとや旅館は嵐が過ぎ去った後のような、穏やかな感じが漂っていましたま
「雨は止んで少し日が照ってきました。部屋から見下ろす梅の木は昨日より少し膨らんで紅の色を帯びてきたように見えます」